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なぜ“ジュリーの歌う姿”を見て糸井重里は「本当にショックだった」のか?…沢田研二の代表曲「TOKIO」があまりにも斬新すぎたワケ

『80年代音楽ノート』より #1

2024/04/20
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 作詞を担当したのは当時、若手コピーライターだった糸井重里――沢田研二のイメージをガラっと変えた、新たな代表曲『TOKIO』が生まれた背景とは?

 音楽評論家で日本のロック、ポップスを創世記から見続ける田家秀樹氏の新刊『80年代音楽ノート』(ホーム社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

名曲「TOKIO」はいかにして生まれたのか?©getty

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沢田研二の新しい代表曲「TOKIO」の衝撃

 新しい時代が始まったとお茶の間の音楽ファンに思わせた最初の曲が、1980年1月1日に発売された沢田研二(1948~)の「TOKIO」(作曲・加瀬邦彦)ではないだろうか。

 電飾をちりばめたスーツにパラシュートを背負った衣装。テレビゲームを意識したようなテクノサウンド。77年にレコード大賞を受賞した「勝手にしやがれ」や、失われつつある男のダンディズムを歌った79年の「カサブランカ・ダンディ」など、阿久悠(1937~2007)作詞のヒット曲のイメージをかなぐり捨てたような変貌は“80年代最初の衝撃”だった。

 作詞は若手コピーライターの糸井重里(1948~)。彼は、沢田が「TOKIO」を歌う姿をテレビで見て「本当にショックだった」「自分でやった仕事なのに『あ、俺はなんか違うところに行っちゃったな』と思った」と話していた。(拙著『みんなCM音楽を歌っていた 大森昭男と もうひとつのJIPOP』[2007年]より)。

 80年代の幕開けは、70年代とは違う新しい文化を浮上させた。それまでは“格下”とされていた「広告」もその一つだった。

 糸井を抜てきしたのは沢田のプロデューサーだった木崎賢治(1946~)。2020年12月発売の著書『プロデュースの基本』の中で「TOKIO」のタイトルについてこう書いている。

「日本人の名前っぽくもあったし、フランスの空港での“東京”の表記でもあるから、まさにこれから国際都市になろうとしている東京もイメージできていいタイトルだなあとピンときました」